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ネコかえるの のほほん日記

入学式と子どもたちへの想い

2017/04/14 12:51 子ども 家族

節目を迎えて

この春、我が家のお嬢様が小学校に入学しました。

3月に6歳になりたてほやほやの娘。

あっという間に大きくなった!

看板の前でのお約束の写真です(♡ˊ艸ˋ)

希望でいっぱいの笑顔です☆

落ちてるどなたかのタオルハンカチが気になるけれど…。




小学校入学という大きな節目を迎えたこの春、いつもよりも濃厚に想い出が駆け巡るような気がします。


娘の成長を1番に報告したいのは、生まれてくることができなかった大切な私たちの3人の子どもたち。

先月のお彼岸に報告してきました。

君たちの妹が、小学校にあがるよ~と。




少し昔の話をしましょうか。




私は不妊症+不育症(習慣性流産)患者でした。

結婚して、娘が生まれるまで約10年。

当時は長く感じたこの期間が、今となっては遠い過去のようにも、つい最近のことのようにも感じます。

亡くした3人は中期だったから、内の二人は性別もはっきり。男の子でした。

きっともう一人も多分、男の子だったのでは…と思っています。

それでも娘を授かることができた私は、きっと運が良かったのだと今でも思います。





過去3度の流産のせいか、娘の妊婦検診は、いつだって、生きているのかの確認でした。

6年前の3月。

予定日より2週間早く、娘が生まれるその日は突然やってきました。

大事をとって既に入院済みだったのは幸いだったけれど、心の準備がまだなくて、突然の破水に恐怖でいっぱいでした。

待ちに待ったはずの日なのに、動悸さえ感じるほど心臓はバクバクで不安で、頭には「無事に産まれるだろうか…」なんて、最悪の事態さえよぎってました。

私は泣きそうで、よほど情けない顔をしていたらしい。

助産師さんに、

「お母さんがそんな顔をしないっ!」

と一喝されて、正気になったことをまだ昨日のように思い出します。

生まれた娘は、深夜の院内に響き渡るほどの声で激しく泣きました。

生きてるんだな~と、感じた瞬間。

あのときの気持ちは言葉にはできないほど。


後で訊いた話で、胎児の栄養源の胎盤は既に機能していなかったそうで、重さは2000グラムとちょっと。軽いですね。

早く出てきてくれて、良かったと安堵しました。



私の母は、娘を抱く私の姿を見て泣いていました。

私が「ほら~、初孫だぞ~、嬉し涙か~?」と照れて茶化すと、

「だって、あんたが赤ちゃんを抱いてるから嬉しくて」と言いました。

孫が生まれたこと以前に、私が生きている子どもを抱いている姿が嬉しかったらしい。

いつも何も言わずに話を聞いてくれていた母。

私が思うより心配かけてたんだなと思いました。





一人目の息子を亡くしたときは、ショックと喪失感のせいか、体と心のバランスがおかしくなって、抜け殻みたいになって、いっそ居なくなりたいとさえ思っていたときに、

「あなたがひとりいれば、それでいい」

と主人が携帯にメールをくれました。

主人はまだ覚えているだろうか。

返事すらまともに書けなかったあの頃。

「またすぐできるよ」とか、そんな不確かな中途半端な慰めよりも、このひとことに、あの時どれだけ救われたかを、私はまだ主人に伝えてなかったな…と、書いてて気づきました。

今更恥ずかしくて言えないので、時々、私のこのブログをこっそり読んでいるようなので、読んだらわかってくれるかも(^^;

くれぐれも、「読んだ」と報告はしなくて良いです。


1人目を亡くして、寂しくて寂しくて、やっとのことでなんとか乗り越えたつもりだったけれど、希望の2人目を亡くして、不育症を宣告された。

治療を受けながら大切に守ってきたはずの3人目も諦めてくださいと言われたときは、私は、さすがにもうダメだと思いました。

心が折れるってこのことだ。

笑い方も忘れそうだった。


不育症の治療中は、頑張っても頑張っても報われなくて、不妊症の上に不育症?どんな確率だよって、私がいったい何をしたっていうんだろ…って思ってました。

気持ちばかりが焦って空回り。八つ当たり。

この治療に終わりは来るのか、来ないのか。

心が疲れてるのを感じてる。

それでも私が望んだことや、遠くの大学病院に行くことになった時も主人は進んでつきあってくれました。

落ち込んだ時は、気分転換に何度も旅行に連れて行ってくれました。


大切な選択を毎度迫られ、悩み、決めた。

これで最後にしようと決めた。

幸せなことに、娘をもう一度授かることができました。

毎日血栓を防ぐための薬を飲みました。

3人の子どもたちが超えられなかった7ヶ月を超えたときは、涙が出ました。

4人目にして、初めて自分のおなかを内側から蹴られたときの驚きと喜び。

胎盤も臍帯も機能を少しずつ失いつつも、持ちこたえ、娘が生まれてきてくれました。

娘の生命力がとても強かったのかもしれないですね。


自分のために多くの人を巻き込んでることに、申し訳ない気持ちもありました。

家族にはいっぱい心配をかけました。

病院の先生や看護師さんはいつも励ましてくれました。

友人や会社のみんなは、悲しいときも嬉しいときも一緒に泣いてくれました。

遠回りをたくさんしたけれど、改めて思えば、私は幸せ者だったかなと、今では思えてきます。

これは終えたからこそ、思えることかもしれません。



ぎっしり書き込まれた娘の母子手帳に比べて、途中で記入が終わってしまった3冊の母子手帳。

戸籍もないけれど、この母子手帳はまぎれもなく、私たちのもとにやってきてくれた唯一の証だったりもする。

写真もないけれど、顔だって今でもはっきり覚えているんだよ。

この子たちの代わりには、誰ひとり、娘さえもなれないんです。

もちろん、娘も息子たちの代わりではありません。



私たち夫婦にとって、元気に生まれてくるということは、奇跡的なこと。

そして、誰でも、自分はきっと自分で思う以上に、周りの人達にとって尊いのかもしれません。

そんな想いがいつか娘に伝わると嬉しい。


経験したからこそ、気づいたこともたくさんある。

無駄なことなど、ひとつもなかったな…と今では思えます。



全ては娘と出逢うため。

ただただ逢いたかったんです。






小学校入学のひと区切り。

普段の春よりも、多くのことを思い出す。

娘を想うと、息子たちを思い出す。

空から妹を見守っていると、信じています。




そして、そんなお嬢様は、毎日元気いっぱい小学校へ登校して行ってます♡






…なんて、

お料理ブログなのに、ヘビーなことを書いちゃいました(。-_-。)

今まであのときの記憶を文章にしたことがなかったから、なんだか書いてたら、筆が乗ってしまって(^^;)

少しスッキリしました。


亡くしてから不育症を定義するのではなく、妊娠の時点で不育症の可能性を検査してくれたら、救える命もあるのに…と今では、強く思います。


長いつぶやきにおつきあいくださったみなさま、ありがとうございました。



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